フィリピンには年間を通して、様々な祝日・祭日・休日があります。
中でも、多くのフィリピン人たちにとって、毎年6月12日の「フィリピン独立記念日」は彼らの歴史を忘れないものにするだけでなく、フィリピン人として尊厳を思い起こさせる重要な日です。
日本とは異なり、複数の国から植民地化された過去を持つ国でもあるフィリピン。
この記事では、フィリピン独立記念日における独立の歴史や祝い方について紹介していきます。
フィリピンの独立記念日とは?
フィリピンの独立記念日は、毎年6月12日に祝われる国民の祝日で、1898年のこの日にエミリオ・アギナルド氏がスペインからの独立を宣言したことを記念しています。
フィリピンは400年以上にわたって他国の支配下に置かれ、独立を勝ち取るまでの長い歴史を持っています。独立記念日は、フィリピン民族のアイデンティティを称え、国民の誇りを再確認する機会となっています。
この日には首都マニラをはじめとする全国各地で、さまざまな祝賀行事が開催されます。例えば、伝統的なパレードや式典が行われ、地域ごとの独自のお祝いや文化イベントも開催されます。また、独立記念日は国民の祝日であるため、多くのフィリピン人が休暇を取得し家族や友人と過ごす機会にもなります。
フィリピンの独立記念日は、民族の誇りと国家の独立を祝うだけでなく、国際関係の強化や観光業の振興にもつながっています。この祝日を通じてフィリピンの歴史や文化について学び、国民の絆を深めることが期待されています。
※フィリピンの本当の意味での独立は、その後もアメリカや日本との戦争や占領を経て、1946年にようやく実現しました。
フィリピン独立記念日の歴史背景
スペイン支配時代
スペイン支配時代はフィリピンの歴史において重要な局面であり、独立運動が生まれる土壌となりました。
この時代にはフィリピン民族の精神が形成され、英雄たちが現れ、独立への道を切り開いていきます。
フェルディナンド・マゼランとマクタン島の部族長ラプ=ラプ王
フィリピンの歴史において、1521年にフェルディナンド・マゼランが率いるスペイン船団が上陸したことは重要な出来事でした。当時、彼らは現地の部族長たちに対してスペイン王への服属とキリスト教への改宗を要求しました。多くの部族がこの要求に従いましたが、マクタン島の部族長ラプ=ラプ王はイスラム教を堅持し、スペインの支配に抵抗し続けました。
セブ島のラジャ・フマボン王とその妃ハラ・ユマンゴンはキリスト教に改宗し、洗礼を受けました。その際にマゼランから贈られた人形サントニーニョは、今もビサヤ地区で信仰されています。また、洗礼式で使われた十字架がマゼランクロスとして知られています。
一方、マクタン島の部族長ラプ=ラプ王は、スペインの要求に屈することなく自らの信仰を守りました。彼はマゼランが率いるスペイン軍と戦い、1521年4月27日のマクタン島の戦いで勝利を収め、マゼランを討ち取りました。この戦いはフィリピン民族の独立精神と抵抗の象徴となっています。
この出来事はフィリピンの独立記念日について学ぶ際に重要な背景情報となります。フィリピンの独立を勝ち取るまでの道のりは、ラプ=ラプ王のような勇敢な指導者たちの抵抗と犠牲を伴ったものでした。今日、フィリピンの独立記念日において、彼らの勇気と抵抗精神が称えられ、国民の誇りとして受け継がれています。
ミゲル・ロペス・デ・レガスピとサン・ペドロ要塞
フィリピンの独立記念日を理解するためには、ミゲル・ロペス・デ・レガスピと彼が築いたサン・ペドロ要塞の歴史を知ることが重要です。レガスピは、1565年にフィリピン諸島を征服し、初代フィリピン総督に任命されました。彼の指導のもとで、スペインはフィリピンにおける植民地支配の基盤を築き、これが後の独立運動へと繋がります。
レガスピは、セブ市内にサン・ペドロ要塞を建設しました。この要塞は、スペインの権力を象徴するとともに、現地の住民に対する支配を強化する役割を果たしました。サン・ペドロ要塞は、スペインの植民地支配のシンボルとなり、フィリピン民族の抵抗の対象ともなりました。
サン・ペドロ要塞の建設以降、スペインによる本格的な統治が始まり、フィリピンの歴史に大きな影響を与えました。スペイン植民地時代は、フィリピン民族の独立精神と抵抗の火種を生み、その後の独立運動につながっていきます。
フィリピンの独立記念日において、ミゲル・ロペス・デ・レガスピとサン・ペドロ要塞の歴史は重要な背景情報となります。これらの歴史的事実を知ることで、フィリピン民族が独立を勝ち取るまでの道のりと、スペイン植民地時代の影響をより深く理解することができるでしょう。
ホセ・リサール
フィリピンのカランバで1861年6月19日に生まれたホセ・リサールは、1880年代から90年代にかけてフィリピンの独立運動を牽引した英雄であり、愛国者、医師、文学者として知られています。語学に堪能で知識豊富な彼は、発言に大変大きな影響力を持っていました。裕福な地主の息子として、マニラで教育を受け、後にマドリード大学へ進学しました。優秀な医学生だった彼は母国におけるスペイン統治の改革に専念しましたが、フィリピンの独立を直接提唱することはありませんでした。
スペイン政府はリサールの活動を恐れ、彼を35歳の若さで銃殺しました。しかし、彼の業績は今日もフィリピンの国民に敬愛され、フィリピンNo.1のヒーローとされています。リサールは日本にも留学し、「おせいさん」こと臼井勢似子さんとの恋愛はフィリピン人の間で語り継がれています。
彼が書いた最初の小説『Noli Me Tangere(ノリ・メ・タンヘレ):我に触れるな』は、フィリピンにおけるスペイン統治の悪を熱烈に告発しました。続編『エル・フィリブステリスモ』で、リサールはフィリピン改革運動の主要な代弁者としての評判を確立しました。宣伝運動の指導者として、バルセロナで出版された新聞『ラ・ソリダリダ』に多数の記事を寄稿しました。彼が提案した政治プログラムは、フィリピンをスペインの州として統合し、コルテスでの代表権、スペインの修道士に代わるフィリピン人司祭、集会と表現の自由、そしてフィリピン人とスペイン人が法の前で平等であることを求めるものでした。
エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ
エミリオ・アギナルドは、フィリピンの独立を求め、スペインとアメリカと戦った指導者で政治家、フィリピン初代大統領として知られています。彼は中国とタガログの血を引き、マニラのカレッジで学んでいましたが、家族の農場を手伝うために早くに学校を辞めています。
彼はカティプナンという革命団体の指導者で、スペイン総督と協定を結びスペインからの金と自由改革の約束と引き換えに亡命しました。香港とシンガポールでアメリカの代表者と接触し、フィリピンに戻りました。
1898年に米西戦争が起こった際、アメリカがフィリピン独立の全面協力をするという約束を経てアギナルド自身もフィリピンに戻り、1898年6月12日にフィリピンの独立を宣言しました。これが今日の独立記念日とされる日です。
しかし、その後のパリ条約でフィリピンはアメリカに割譲されました。
これによってアメリカとフィリピンの関係が悪化し、アギナルドはフィリピン共和国の大統領に選出されることとなりました。フィリピン・アメリカ戦争が勃発し、フィリピン人は勇敢に戦ったものの敗北し、ゲリラ戦に移行しました。
第二次世界大戦中、アギナルドは日本によって反米ツールとして利用されました。彼はアメリカの将軍に降伏を呼びかけましたが、失敗しました。
1945年にアメリカ軍がマニラを奪還したのち、アギナルドは逮捕されましたが、恩赦で釈放されました。その後の彼は国務評議員に任命され、フィリピンの退役軍人問題やナショナリズム、フィリピンとアメリカの関係改善に尽力しました。
アメリカ支配時代:フィリピンの独立への道
アメリカ支配時代は、フィリピンの歴史において新たな展開が始まる時期であり、その後の独立への道を築いていきました。1898年の米西戦争に勝利したアメリカは、パリ条約によってスペインからフィリピンを譲り受けました。しかし、フィリピンの独立を求める声は根強く、アメリカとフィリピンの間には紛争が続きました。
1901年、アメリカはフィリピンの行政権を握り、教育制度やインフラの整備に力を入れました。アメリカ式の教育を受けたフィリピン人は、民主主義の価値観や英語を学び、国際社会で活躍することが可能となりました。また、アメリカはフィリピンの経済発展にも貢献し、新たな産業が生まれました。
しかし、フィリピンの独立志向は衰えず、アメリカは1946年7月4日にフィリピンの独立を認めました。フィリピン・コモンウェルス憲法が制定され、フィリピンは新たな国家として発足しました。アメリカ支配時代は、フィリピンの独立に向けての重要なステップであり、現在のフィリピン社会にも多大な影響を与えています。アメリカとの関係は、フィリピンの政治、経済、文化において重要な役割を果たし続けています。
独立とその後の経緯
独立後フィリピンは経済成長を遂げ、政治の安定を図ることが求められましたが、1960年代以降、国内の政治不安や経済格差の拡大が問題となりました。
フィリピンは1986年、フェルディナンド・マルコス大統領が独裁政治を行っていた時代に、民主化を求めるピープル・パワー革命(別記事:エドサ革命記念日)が起こりました。この革命により、コリアキノ・アキノ大統領が政権を継承し、フィリピンは民主主義へと移行しました。
以降、フィリピンは民主主義を維持しながら経済発展を目指しています。実際にもフィリピンは人口増加と急速な経済成長を遂げており、ASEAN諸国の中でも重要な役割を果たしています。
6月12日:フィリピン独立記念日の祝賀行事
6月12日はフィリピンがスペインからの独立を宣言した1898年の同じ日に、フィリピン独立記念日として祝われています。この日には国民の愛国心と団結を高めるために、さまざまな祝賀行事が行われます。
伝統的なパレードと式典
フィリピン独立記念日の最も目立つイベント行事は、ルソン島にある首都マニラのリサール公園で行われるパレードと式典です。
ここでは、大統領や政府高官が出席し、国旗の掲揚や花輪の供えなどの儀式が行われます。また、軍隊や警察、市民団体などが参加する華やかなパレードが繰り広げられます。
地域ごとの独自のお祝い
フィリピンは7,000以上の島からなる多様な国です。そのため、地域ごとに独自のお祝いの仕方があります。
例えば、ミンダナオ島ではイスラム教徒や先住民族が自分たちの文化や歴史を紹介するイベントが開催されます。ビサヤ地方では、カラフルな衣装やダンスで知られるシヌログ祭りが行われます。また、パラワン島では、海洋生物や自然保護に関する展示や活動が行われます。
独立記念日に関連する観光スポット
フィリピン独立記念日には、国の歴史や文化に触れることができる観光スポットも人気です。
例えば、カヴィテ州にあるアギナルド邸は、最初の大統領であるエミリオ・アギナルドが独立宣言をした場所です。ここには当時の家具や写真などが展示されています。
また、バターン州にあるコレヒドール島は、第二次世界大戦中に日本軍と戦ったフィリピンと米国の兵士たちの勇敢さを称える場所であり、戦争の遺跡や記念碑などが見られます。
フィリピン独立記念日の意義と現代社会への影響
フィリピン独立記念日は、フィリピン人の民族の誇りとアイデンティティを象徴し、現代社会にも多くの影響を与えています。
民族の誇りとアイデンティティ
フィリピン独立記念日は、フィリピン人の民族の誇りとアイデンティティを高める機会です。この日には、国旗や国歌を掲げたり歌ったりし、独立運動の英雄や指導者に敬意を表したりします。また、フィリピンの文化や伝統に触れたり、フィリピン料理や芸術を楽しんだりすることもできます。フィリピン独立記念日は、フィリピン人の多様性や団結力を示す日でもあります。
独立記念日を通じた国際関係の強化
フィリピン独立記念日は、国際関係の強化にも寄与しています。この日には、フィリピンと友好関係にある国々の代表者が参加したり、メッセージや祝電を送ったりします。また、海外に住むフィリピン人も、在外公館やコミュニティで独立記念日を祝ったり、現地の人々にフィリピンの歴史や文化を紹介したりします。フィリピン独立記念日は、フィリピンと世界とのつながりを深める日でもあります。
まとめ:6月12日フィリピン独立記念日の祝い方と歴史の学び
フィリピン独立記念日は、国民のアイデンティティと誇りを讃える特別な日です。この日、国内外でさまざまなイベントが開催され、フィリピンの豊かな歴史や文化に触れる絶好の機会が提供されます。友好国との交流も盛んに行われ、国際協力を促進する契機ともなります。
フィリピンの人々はこの祝日を通じて、フィリピンの独立を勇敢に戦った英雄たちからインスピレーションを受け、自分たちのルーツを再認識するのです。先人の犠牲と努力を讃え、自らの人生やコミュニティに対する情熱を見つめ直すことができます。
フィリピン独立記念日は、現代社会においても多くの意義と影響を持つフィリピンの祝日です。あなたが現地の歴史に興味を持つ旅行者なら、この日のイベントを通じて過去を学び、未来への希望と展望を持つ現地の空気を感じることができでしょう。