ユーリ(@firipedia18)です!
フィリピンという国が、もともとフィリピンに興味がなかったような層にも耳に入ることがあった背景に、今回取り上げるドゥテルテ元大統領の存在は大きいはず。
フィリピン版のトランプ、とまでいわしめた、そんなドゥテルテ元大統領を取り上げないわけにはいきません。
「ドゥテルテってどんな人物なの?」
「どんな活躍をして功績をあげたの?」
というような疑問を持ってこの記事にたどり着いてくれた方向けの内容となっています!
記事を読み終わる頃には、フィリピン人とドゥテルテ元大統領の話題になってもバッチリ会話を合わせることができるでしょう!
ドゥテルテ大統領とは?
ドゥテルテ(元)大統領とは、本名:ロドリゴ・ロア・ドゥテルテ(英語:Rodrigo Roa Duterte)は、2016年から2022年までの6年間フィリピンの第16代大統領を務めた政治家です。1945年3月28日、フィリピンのレイテ島で生まれ、幼少期に移ったフィリピン南部のミンダナオ島ダバオ市で育ちました。
2016年の大統領選挙で当選する前に、ダバオ市長を7期務めた経歴を持っています。大統領就任後は麻薬撲滅戦争を推進して、5,000人以上の容疑者を殺害したとされ、人権問題にも発展。また、中国との友好関係を強化し、南シナ海問題で米国と対立しました。
ドゥテルテ氏はアメリカのドナルド・トランプ張りの過激な発言と独裁的な政治手法で批判されることもありましたが、同時に注目も浴びました。ある調査では国民の支持率がなんと91%と歴代大統領で最高を記録。
フィリピンの経済成長と治安の改善に一定の成果を挙げたと評価されている人物が、このドゥテルテ元大統領なのです。
大統領就任の年の暮れには、CNNがアジア圏の影響のあった人物を発表した「The winners and losers in Asia in 2016」のBig Winnerの部で、ロドリゴ・ドゥテルテ氏が選ばれました。
なお、タガログ語・ビサヤ語・英語を使えるので、普段はタガログ語で発言しますが、ビサヤ地方であるダバオ市民に向けてはビサヤ語で話しかけます。
ドゥテルテ元大統領の人物像
子供時代と教育
法律家の父親と高校教師の母親の間に生まれたドゥテルテの幼い頃は、決してエリート層ではなかったといわれています。
ドゥテルテ氏はアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席するために訪れているダナン(Danang)で「10代の頃は刑務所を出たり入ったりしていたものだった。そこかしこでけんかしていた」「16歳の時には既に人を殺していた。本物の人間をだ。けんかで刺した」と語った。
引用元:https://www.afpbb.com/articles/-/3150083
過去に人を殺しちゃってるんですねドゥテルテは。。。
教育においては、フィリピン・リセウム大学で法学を学び1968年に卒業、その後はサンベーダ法科大学院に進学、1972年に司法試験に合格しています。大学在学中には、銃撃事件を起こしたことで退学処分を受ける危機もありましたが、当時の学校関係者の助けによって退学は免れるなど、過激で破天荒な逸話が目立ちます。
政治キャリア・経歴
1977年に地元であるダバオ市で検察官として就職し、第2副検事まで昇進するなどして10年務めた後、母親の後押しもあって政治家への道を歩みはじめます。
1986年にコラソン・アキノ大統領によってダバオ市副市長に任命、1988年のダバオ市長選に立候補して初当選→市長に就任して以来、通算20年以上(7期)に渡って、現地治安の劇的改善など、まさに英雄とまでいえるすごい役目を果たしました。
2016年フィリピン大統領に就任しました。
ダバオ市長時代の実績
かつてはフィリピンで最も危険な場所の一つとされたダバオ市が、ドゥテルテ氏が市長に就任した後に劇的に変わりました。市民は午後8時以降には外出を避け、安全に街を歩くことが難しかったほどでした。しかし、ドゥテルテ氏の厳格な治安対策と強力な手腕によって、状況は大きく改善されたのです。
彼のリーダーシップ下で、殺人、麻薬取引、強姦などの重大犯罪が急速に減少しました。この背景にはさまざまな新しい法律が施行されたこともあり、犯罪者や薬物使用者は厳しく取り締まられました。
その結果、ダバオ市は「フィリピンで最も安全な地域」へと生まれ変わったと言われています。彼の果たした業績によって、かつて「犯罪都市」とまで呼ばれたこの街は、安心して生活できる場所に変貌を遂げたのです。
ダバオ市長時代の実績は次の通り。
1)2002年施行:新年の花火禁止措置
フィリピンには、新年を迎えるタイミングで空に向かって花火を飛ばすという文化が存在します。ただ、この行為が毎年多くの怪我や命を奪う事故を引き起こしていました。それを解決するために、ダバオ市は2002年から新年の花火を禁止しています。その代わりに、フィリピンの人々はおもちゃのラッパを吹いて年を越すように勧められています。この新しい習慣は次第に広まっていて、現在では年末には「ラッパフェスティバル」さえ開かれています。
2)2002年施行:公共の場、公共施設での喫煙を全面的に禁止
ダバオ市は、公共空間と公共施設での喫煙を全面的に制限する条例を導入したアジアで最初の都市となりました。この条例のおかげで、レストラン、バー、オフィス、公道、商業施設などは完全に禁煙区域とされています。喫煙は指定された場所でしか許されず、それ以外での喫煙は厳しく取り締まられます。警察の監視も強化されていて、ダバオの国際空港や国営カジノも禁煙区域になっています。ちなみに外国人もこの規制の対象なので、喫煙者は十分な注意が必要です。
※その後2017年にフィリピン全土で全面禁煙の大統領令が発令されました。大事なことですが、日本のように路上喫煙禁止としても取締が機能していないのではなく、フィリピンでは実際に厳しく取り締まられるということ。日本もこれぐらいやらないと変わらないと感じます。
3)2002年施行:24時間対応の緊急通報センター「911」の導入
ダバオ市長時代に導入された911は、日本でいう警察、救急、消防に相当する緊急サービスです。何かしらの緊急事態が発生した場合、この番号にいつでも電話が可能になっていて24時間体制で緊急対応車両が出動する仕組みが整っています。このシステムは、フィリピン国内で唯一ダバオ市とキダパワン市で運用されています。ただし、ダバオ市外で自然災害やその他の緊急事態が発生した場合、911の緊急対応車両が駆けつけることもあるのです。
4)2003年施行:深夜から早朝にかけて酒類の販売禁止
未成年者による飲酒や犯罪を抑制して街の治安を保つ目的で、2003年7月から夜1時から朝8時まで酒の販売が禁止されています。この規制は現在も続いており、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、レストランなど全ての店舗で適用されています。このルールに違反した店は営業許可取り消しとなります。このような厳格な手段によってダバオ市の治安維持が図られているんですね。
5)2011年施行:市内に清掃体制を整備し、ゴミの分別収集を開始
環境保全、市民の道徳心の向上、そして都市美の維持を目的に、ダバオ市は清掃員の配置とゴミ分別制度を実施しています。清掃員によって街はいつも綺麗な状態に維持されています。また、ゴミ分別に関しては特定のゴミ集積場を設け、専門のゴミ収集ボックスも用意されています。さらに日本のように、ゴミの種類に応じた収集日を定めて、ルール違反者には厳罰を科すなど、制度の厳格な運用が行われています。
6)2011年施行:国内初となる少数民族議員枠を市議会に設置
フィリピンは主にカトリック教徒とイスラム教徒で構成されていますが、それ以外にもルマドや他の少数民族が存在しています。これらのマイノリティグループは政治的にも埋もれ、その声があまり行政に反映されていませんでした。そこでダバオ市のドゥテルテ市長(当時)は、市議会に少数民族専用の議席を設置して、このグループにも政治参加の機会を提供したのです。この取り組みはルマドやその他の少数民族によって高く評価されています。
7)2013年施行:営業許可書発行の迅速化、72時間以内の発行規定を導入
フィリピンでは一般的に、官公庁の手続きが非常に遅いとされています(フィリピンタイムとまで揶揄されることも)。簡単な署名でも一日がかりだったりすることもあります。ダバオ市のドゥテルテ市長(当時)はこの問題に取り組み、ビジネスと投資を促進するために新たなルールを制定しました。それが「必要な文書が全て揃っている場合、営業許可書は最長でも72時間以内に発行される」という規定です。もし発行にそれ以上の時間がかかる場合には、申請者は公式に苦情を出すことができるだけでなく、市長自身がその問題を担当者に指摘すると公言しました。
8)2013年施行:車両のスピード違反に対する取り締まりを強化
ジープニーと呼ばれる乗り合いバスの過度な速度が原因で死亡事故が発生したことをきっかけに、ダバオ市では道路での車両の速度制限を確立しました。特に都市部の道路においては、最高速度を30km/h以下とする厳格な基準が設けられました。現地の警察と陸運局のスタッフによるスピード違反の厳しい取り締まりが頻繁に実施されています。なおこの制限を導入することになったきっかけである事故を起こしたジープニーは、その後しばらく道路沿いに放置されたことでその危険性を市民に強く印象付けました。
ドゥテルテ元大統領の功績と批判
ドゥテルテ大統領時代(2016年〜2022年)の功績と批判について、ここでは主に「薬物対策」「経済政策」の2つのトピックを軸に見ていきましょう。
薬物対策
就任直後から麻薬問題の解決を最優先課題として掲げたドゥテルテ大統領。警察や自警団による麻薬犯罪者の厳しい取り締まりをいち早く展開しました。政府発表によると、2016年7月から2022年5月末までに、麻薬撲滅作戦によって約34万人の麻薬使用者や密売人が逮捕され、約6,000人が死亡しました。[1]また、麻薬依存者のための治療施設や更生プログラムも整備されました。
ドゥテルテ大統領自身は、この政策によって国内の治安や公共秩序を改善し、麻薬撲滅に向けた成果を上げたと主張しています。一部の国民や支持者からも麻薬問題に対する強い姿勢や決断力を評価されています。
しかし一方で、この政策は国内外から多くの批判を受けています。なかでも人権団体や国連などは、警察や自警団による超法規的な殺人や暴力、不当な逮捕や拷問などの人権侵害を指摘していて調査を求めています 。また、麻薬撲滅作戦の対象となった人々の多くは貧困層であって、社会的不平等や差別が激化したという指摘もあります。
ちなみに麻薬問題の根本的な原因や解決策については十分に検討されておらず、暴力的な手段だけでは効果が持続しない、という見方もあります。
経済政策
ドゥテルテ大統領は経済政策においても積極的な取り組みを行いました。たとえば、「ビルド・ビルド・ビルド」と呼ばれる大規模なインフラ整備計画を推進して、道路や橋、空港や港湾などの交通網や公共サービスの向上を図りました。ドゥテルテ氏の退任後である2023年においても「ビルド・ビルド・ビルド」のスローガンは継続されています。
また、貧困削減や農村開発などの社会政策も強化しており、最低賃金の引き上げや現金給付制度の拡充などを行ないました。さらに外交政策では、米国との従属関係からの脱却を目指し、中国やロシアなどとの関係強化や自立的な防衛体制の構築を進めました。
ドゥテルテ大統領は、これらの政策によって経済成長や雇用創出、国際的な地位向上などの功績を残したと主張しています。一部の国民や支持者からも、インフラや社会サービスの改善、外交の多様化などを評価されています。
麻薬対策と同様に、この政策も国内外からは非難の声もあがっています。たとえばインフラ整備計画は、予算や人材の不足、官僚主義や汚職、環境問題などの課題に直面し、計画通りに進んでいないという指摘です。社会政策は、財源の不足や配分の不公平、実施の遅れなどによって、貧困や格差の解消には十分ではなかったという声もあります。さらに外交政策では、米国との関係悪化や中国との領有権争い、人権問題などによって国際社会からの信頼や協力を失ったという見方もあることは否めません。
ドゥテルテ元大統領の家族とプライベート
子供たち
ドゥテルテ元大統領には4人の子供がいます。
長男のパオロ・ドゥテルテはダバオ市の元副市長。麻薬密輸に関与していた疑惑や、10代の娘とソーシャルメディア上で起こしたいさかいの責任を取って公職を辞したとされています。
長女のサラ・ドゥテルテはダバオ市長を務めたり、ボンボン・マルコス政権下になってから副大統領を務めたりと、父親の後継者と注目されることが多い人物です。
次男のセバスティアン・ドゥテルテはダバオ副市長に当選しています。
次女のベロニカ・ドゥテルテは10代(2023年時点)。ハロー・キティが大好きだそうです。
プライベートでのエピソード
ドゥテルテ元大統領は自身のプライベートについても公言することが多いんです。
有名なエピソードで例えれば、自分が同性愛者だったことを告白したり、16歳の時に喧嘩で人を刺殺したことを語ったり、強姦殺人容疑の中国人の男性をヘリコプターから投げ捨てたことがあると発言したりしています。
また、日本人も埋葬されているミンタル墓地に「人類は皆家族」という自らのメッセージを刻んだ「日比友好の碑」を建立したことも明かしています。
ドゥテルテ元大統領の言葉
ドゥテルテ元大統領はその強烈な発言や行動で世界中から注目されました。ここでは、ドゥテルテ元大統領の名言集や英語でのスピーチを紹介していきます。
名言集
ドゥテルテ元大統領は、自分の考えや信念をはっきりと伝える人物です。そのため、時には過激な発言や暴言を吐くこともありましたが、その発言には彼なりの理由や背景があります。ここでは、ドゥテルテ元大統領の名言集をいくつか紹介します。
「私は戦いを望んでいるわけではない。だが、あいつらバカな米国人は弱い者いじめをする。いじめっ子で、厄介な害虫だ」
– アメリカ政府に対して –
「私が保証する。ここに入り込もうものなら、血塗られたものになるだろう。われわれは簡単には屈しない」
– 南シナ海でフィリピン領を侵犯する中国について –
「麻薬に手を出したやつは殺す。本当に殺すからな」
– 大統領選での演説 –
「カトリック神父など殺してしまえ」
– カトリック教会が強圧的な麻薬戦争に反対の立場だったため –
「美しい女性がいる限り、レイプはなくならない」
– レイプ事件に対するコメント –
これらの発言は、人権や法治を無視しているように見えますが、ドゥテルテ元大統領はフィリピン国民のために麻薬撲滅戦争を推進し、外国からの干渉や侵略に対抗しようとしていました。
彼は自分の国や民族への愛国心が強く、自分の信念を曲げない人物なんですね。これらが国民にも伝わるため、彼の発言はフィリピン国内で高い支持率を得ていたのです。
英語でのスピーチ
ドゥテルテ元大統領は、タガログ語やビサヤ語などのフィリピンの言語だけでなく、英語も話すことができます。英語はフィリピンの公用語の一つであり、教育やビジネスなどで広く使われています。
ドゥテルテ氏は英語でのスピーチも多く行っていて、その中には印象的なものもあります。ここではドゥテルテ元大統領の英語でのスピーチをいくつか紹介します。
「I am here because I love my country and I love the people of the Philippines. I am here, why? Because I am ready to start my work for the nation」
– 統領就任式でのスピーチ –
「I will be very frank with you. I have nothing against America. They are a great people. But somehow, along the way, their foreign policy on the Philippines went wrong」
– 日本を訪問した際のスピーチ –
「I am not a killer. I do not relish or enjoy a Filipino sprawled there with all the blood. I do not want it. But I have to protect the Filipino people. It is my duty」
– 国連総会でのスピーチ –
「We are not beggars. We will survive without the assistance of America. Maybe a lesser quality of life, but we will survive」
– アメリカからの援助を断った際のスピーチ –
「I have a duty to preserve the Filipino nation. And that is why I went into this fight against drugs, criminality and corruption in government」
– アメリカとの同盟関係についてのスピーチ –
これらのスピーチは、ドゥテルテ元大統領が英語で国際社会に向けて発信したものです。彼は自分の国や人々を守るために必要なことを言っています。つまり、外国からの圧力や批判に屈しないという姿勢を示しています。
名言・スピーチ参考リソース:
https://people-world.com/duterte-mandate
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/15209?page=2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%86
https://www.youtube.com/watch?v=0J1v0YwZg8s
https://www.youtube.com/watch?v=QX4yQxZ6k7A
https://www.youtube.com/watch?v=4lJlNnF
ドゥテルテ元大統領の退任後と現在・今後の状況は?
フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ元大統領は2022年6月30日に6年の任期を終えたわけですが、退任後の現在の状況や今後について調べている方もいるでしょう。
残念ながら退任後についての情報は出回っておらず、一説によると現在は政界から身を引いて家族と過ごす計画だといいます。
とはいえ、現フィリピン大統領のボンボンマルコスについても当初から指示しており、ドゥテルテの娘であるサラ・ドゥテルテは2023年現在で副大統領を務めていることから、今後も何かしらの関係を裏で持っているとみるのがフィリピンというお国柄です。
ドゥテルテ元大統領の影響と人気
これまでドゥテルテ元大統領について振り返ってみましたが、一言いうならばドゥテルテ氏は間違いなく良い意味でも悪い意味でも、世界にフィリピンという名が知れ渡ることに影響を与えた人物だったということ。
任期中は様々な政策を実行にまで移したことも紛れもない事実です。
時には人権問題にまで発展するケースもありましたが、それでも国民から圧倒的人気を誇っていたことは間違いありません。
彼のDNAを親子という形で受け継ぐ娘が副大統領であることを鑑みても、彼が土台をつくった政策の行く末には今後も注目です。
脚注
1 Philippine Drug Enforcement Agency発表の違法薬物撲滅作戦の数字